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凋叶棕運営記。基本まったり更新。
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2017/11/22 (Wed)
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2014/01/08 (Wed)
「(R.I.P)」

未だ存在せぬ原著に基づく、紅魔館大図書館の物語です。


パチュリー・ノーレッジの命が、尽きようとしている。
そんな話を聞いた魔理沙がパチュリーに逢いに行き、そこで知らされる、紅魔館の大図書館の秘密。
それは、紅魔館の図書館の「呪い」の仕業であるという。

そうして、二人は、パチュリーが図書館の呪いを引き受けた、あの日のヴワル魔法図書館へと旅立つ。
 そこに居たのは、この図書館の以前の主、太陽の魔女ヴワルと、月の魔女パチュリー(このときは、ノーレッジとは名乗らない)
 二人の出会い。ヴワルを追い出そうとするレミリア・パチュリー。
だが、追い出されたいのは、実はヴワルも同じ思いであった。
その真相は、遂にヴワルを追い出すことが可能になったときに明らかとなる。
この図書館は、魔女を閉じ込め、その力を食べて「生きている」のだという。そして、その力を吸い尽くした時、次の魔女を捕まえ、また同様に閉じ込めていく。

そうしたことを話して、解放を喜ぶヴワルと新たに囚われるパチュリー。
だが、ヴワルの解放は、図書館からの自由を意味しない。ヴワルの命もまた、そこで尽きていく。
そして、今までの魔女の魔法を継承した月の魔女は、図書館と共に生きていくこととなった。

さて、そのパチュリーの命が尽きるということは、どういうことか。
太陽の魔女、月の魔女、次に図書館に選ばれたのは、星の魔女。

それであれば、次の次の図書館には誰が選ばれるのか…




紅魔館大図書館を「ヴワル魔法図書館」と呼んだことは誰しも一度はあると思うのですが、
そこについて掘り下げたお話です。

この曲は原著が存在しないため、どこまで何を描写するべきかはかなり迷いましたが、
まずはこのお話に思いを馳せてもらえるよう、三人の象徴をそれぞれ「太陽と月と星」として作っています。


ヴワルはパチュリーとは対照的に、明るい魔女という感じであるらしいので、ヴワルを象徴する一番は元気よく、明るめに。
パチュリーは月の魔女としてのイメージで、静かに大人しく。
最後の魔女は、星の魔女らしくきらきらと壮大に。

R.I.P.というと、「Requiescat in pace」(安らかに眠れ)の省略ですが、
R.I.P.では、   「Requiescant in pace 」と、微妙に違いますが、これは対象が一人か複数人かの違いです。

発音が「レクイエスカント・イン・"パーチェ"」となるのがちょっと大切ですね。

ヴワルの今際のときにはパチュリーがいて、
パチュリー・ノーレッジの傍には魔理沙がいたわけですが、
魔理沙の傍にも誰かが居て欲しいと思っていますが、それは誰になるでしょうか…


かくも数奇な密室の少女たちの物語、いつか私たちはどこかで読めるのでしょうか。
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2014/01/02 (Thu)
「落日」

遊女「霧雨」の存在と森近霖之助の邂逅を描いた物語です。

  霧雨魔理沙は、その身を遊女に落とし、「霧雨」という名で春を鬻いでいた。
  その、大三世「迷蛾楼」の遊女「霧雨」が今夜取った客は、森近霖之助その人であった。
  実の父親に水揚げされた遊女を嗤いにでも来たのか、と食って掛かる霧雨。
  言葉も草々に、そうして結局は、ことに及ぶ二人。
   哀しいのか嬉しいのか曖昧なままの霧雨に、「綺麗になったね」と声をかける霖之助。
   ことを終えたのち、次に親父と会ったときには「兄弟」と言ってやれ、と言い残す霧雨。窓の外には季節外れの花火。
   遊女となった彼女を連れ出すことも救うこともできず、ただ、自責の念に駆られるように大門の外でうなだれる霖之助。


 「落日」は、そもそもが霧雨魔理沙が春をひさぐという構想での合作「霧雨ロマンポルノ」に収録されているため、春をひさぐ魔理沙であるという強烈なイメージが何よりも印象的です。
本著は現代風俗パートと遊郭パートがあり、 「落日」は後者という位置づけです。
(前者も前者で語りたいところの多いお話なのですが、今回は割愛いたします)

 さて、「落日」本編は、霖之助と「霧雨」の出逢いが描写されるわけですが、
霧雨は、自分の苗字を敢えて名乗ることで、その身分を以て実家に復讐しているのだと私は考えておりました。
霖之助と、ある意味で結ばれ、ある意味で幸せで、ある意味で最も不幸なこの展開の持つ鬱っぽさからは、ものすごいパワーを感じます。
特に印象的なのは、霖之助を見つけたときの魔理沙の表情で、なんというか、逢いに来てくれたことへの純粋な喜びを感じさせつつも、それ以外の思いも複雑に絡んでいるような感じです。
結局、「落日」は誰も幸せになっていないのですが、それがいいと言いますか、なんというか、その救われなさこそが美しいと思っている次第です。


さて落日ロマンスは、「魔理沙が遊女に」というそのシチュエーション自体のインパクトそのものをまず伝えたい!!と思っていたため、
薦で唯一「本編よりも前」の描写を中心に、霧雨は、霖之助に出会う前にどんな思いでいたのか?ということを中心に考えて制作しています。

霧雨が霖之助に逢いたがっていたかどうかは、正直なところ今も私の中では確たるものがありませんが、
ロマンスの中の霧雨はかなりそちらよりです。

これは、そうでも思わないとやってられないんじゃないかなと思う反面、
出会ってしまったらそれは破滅というか、霧雨の中の最後の可能性を潰してしまうことにもなりかねないというような、そんな思いです。どちらにせよ救われない。
でも、やっぱり魔理沙は霖之助を乞いているのではないかな、と制作時はそういう思いが強くありました。

ただ、出逢ってしまったら、することはひとつしかありませんが…

音楽的には、地味に明るく、しかし歌詞は重く、なんというかアンビバレントでちぐはぐな「愛」に生きる嘘つきのようなイメージで作っています。

梁塵秘抄の「あそびをせんとや…」は、様々な解釈がありますが、遊女がその身の罪深さを嘆いているという解釈も認められるようで、ならばこれがイントロにふさわしいと思ってのことです。


重いお話ではありますが、これも一つの魔理沙の形としてお薦めしてみたい次第です!
2014/01/02 (Thu)
「竹ノ花」

 自らが背負う運命と共に生きた、稗田家の三人の物語です。


・阿七の物語
  
  稗田の奉公人として雇われた若い男と稗田阿七。
  その男に、自分の身に課せられた運命を告げ、もうすぐ、この体は駄目になると告げる阿七。
  それに対しまだ命のある限り元気に生きればいい、といったことを諭す男。
  そうして、阿七は誰とも知らぬ男の元へ嫁いで行く。
  あるいは好き同士であったかもしれない二人だが、阿七は結局、自分の運命を変えるには至らない。
  男も男で、阿七にふさわしい幸せが見つかった、とその行く先を祝福する。
  
  男の心に、癒されなぬ小さな傷跡が疼く。



・阿弥の物語
  
  それから何十年かあとのこと。
  成長した男は、稗田阿弥の家の傍で働きながら、次代の阿礼乙女、阿弥の御守のような役割を引き受けていた。
  阿弥は「貴方を愛するために生まれてきた」として、男と添い遂げ、つかの間の幸せを手にする。
  が、それも長く続かず、男が仕事で留守の間に、阿弥はその命を散らしてしまう。

  二度も自分の手から離れて行ってしまう阿礼乙女に、男はただ哀悼に暮れるしかなかった。



・阿求の物語 

  それからさらに何十年か後のこと。
  年をとり、何も語らない男に寄り添うのは、男の娘である、稗田阿求。
  置いてきぼりにしてしまった琴、待たせてしまったことを詫び、何度でも転生して償うという阿求に、
  男は、愛とは貸し借りではなく、この世界は愛だけではないと諭し、
  愛という荷物を背負って生きるのではなく、自分の好きなように生き、好きなものを愛して生きて欲しいと自分の娘に願う。



まず、無粋ながら、阿礼乙女の転生には設定上百年単位の時間がかかるため、このお話はその点をついてはいけない、ということを理解しているうえで制作に臨んだことを申し添えておきます。
であっても、それであっても、このお話のドラマは実に熱いものだと思っています。
自分が愛した女、自分を愛した女 、そうして娘として生まれ変わる…そういった関係性をたどれるのは、阿礼乙女をおいて他に居なかったでしょう。

竹の花は、咲くと辺りの竹が枯れてしまい、(竹の種が大量にとれ、これを目当てに鼠が繁殖し、衛生状態の悪化や穀物に被害を与えるという説もあり)不吉の象徴と言われていますが、
花が咲けばあとは枯れるだけ。これは稗田の女も同じ、と、竹の花と咲けば散るだけの阿礼乙女とを重ねています。

転生を重荷として感じ、ただ男を愛し続けるのではなく、自分の生きるように生きてほしい、と男が阿求を諭すシーンは、つまるところ転生による記憶の継承の否定、思いの継承の否定であって、記憶をすべて共有しているわけではないという部分に合致する辺りが憎いです。


制作開始当初より、一番一代で、三番まで作ることを想定していたので、一番一番は短くまとまるよう、以て言葉選びに気を使いました。
 制作時、二つの案があり、疾走風とゆったりスローテンポの二つがあがったのですが、めまぐるしく変わる運命に翻弄される感じがよりそれらしいかなーというイメージの元、疾走風味を採択しています。

音の感じというか、三番までの繰り返しなので、曲全体の雰囲気として統一されつつも、
微妙に歌詞や裏の音の動きなどのイメージが違います。
阿七は、少し遠くから阿七を眺めるイメージで。
阿弥は、否応なしに流れに巻き込まれるように。
阿求は、もうすべて終わってしまっていて、静かに時間を刻んでいるような感じで。
極端に変えたわけではなく、あくまでもイメージですがそのような感じです。

 「どうか、私の代わりにあの人と生きて」といった表現が二度繰り返されるのは、作中でも大切なシーンになっています。
阿七、阿弥が「私の末裔よ、私の代わりにあの人を愛してあげて」と願うのですが、
その思いのみではいけない、と男が振り切って阿求を諭すのがとってもじんと来るお話ですね。
阿求には幸せに生きてほしいですね。

阿七、阿弥、阿求それぞれと男の距離感というのが違うのですが、このあたりはブックレットがそれを如実に表しているように思います。実に素敵な一枚を頂きました。

運命に翻弄されながらも愛を貫く、稗田家の物語をぜひ!
2014/01/02 (Thu)
「かぜなきし」

洩矢諏訪子、八坂神奈子、東風谷早苗の三人を中心に、人と神との関係をえがいた物語です。  
これも非常にタイムスケールの長い作品で、全体として二部に分割されています。


1.神が人を支配していた時代の、諏訪子と神奈子の物語。

  洩矢の王国に君臨する神「諏訪姫」は、人と神との絶対的な関係のままに、人の上に君臨していたが、
  人が鍛えた土である「鉄」を手にしたことをきっかけに、
  人と神とが共に支え合って生きていくことこそが真に大切なのだと思いを改め、人と共に生きていくこととなる。
  そんな中、洩矢の王国は風の神八坂神奈子の襲撃を受け、これに敗れ、その王国を奪われる。
  王国を奪われた諏訪姫は、人を守ることもできず、王国の荒廃をただただ見ているばかりとなる。
  
  王国の荒廃を黙ってみている諏訪姫に対し、自分達は神から見捨てられたと思い込む人からの八つ当たりのような復讐。
  そうして諏訪姫は、自分の身に人の子を宿すに至る。

  ややあってその身の子を産む諏訪子だが、
  自分は神、この子は人、人の子は、人に育てられるが最良と、
  その体を抱きしめることもせずに、自らの子を人の手に委ねる。

  それを遠巻きから眺める神奈子は、
  「人の子は人に、神の子は神に愛されるのが道理ではないのか」と疑問を抱くが、
  それは諏訪姫には届かない。

  その子を見守りながら、諏訪姫(諏訪子)と神奈子はお互いを認め、以て王国を統治していく。



設定はほぼ、原作の流れにそのまま沿っているのですが、諏訪子に子供ができるという一点の描写に力を入れていることが大変特徴的です。そしてこれこそがかぜなきしの最も大事な点だと私は思っています。

「人の子は人に、神の子は神に愛されるのが道理」であるのに、諏訪子の子供は諏訪子に愛されない。

諏訪子にとって、その子は自分の子であっても、「人」であって、人と神との違いを思えば、自分の子として抱いて、「なくこともできない」のではないかと思っています。

この時点の人と神とは、部分的に歩み寄りを見せているようで、それでも神(主に諏訪子)は神、人は人であるという絶対的な違いをかたくなに維持します。
結局神は孤独なのだと思わざるを得ません。

かぜなきしの音楽は、「神」っぽく、壮大に~というイメージですが、辿/誘のCallingを思い出すような感じです。あれも自分の中では「偉大なもの」のイメージです。

サビ直前に入る「かけまくもかしこきいざなぎのおおかみ」の祝詞は、人から神にささげるものとして、作中でも印象的に用いられていますのでこれは入れるしかないな…と思ってのことです。
ときに、「かけまくもかしこきいざなぎのおおかみ」は祝詞の一部分でしかありません。
これだと「いざなぎのおおかみ」に自分の言葉を申し上げる…と言っていることになってしまいますが、それは祓の言葉的には正しくないため、
それであればいっそ「かけまくもかしこきはらえどのおおかみ」としてしまうのがいいと思うのですが、かぜなきし本編では「かけまくもかしこきはらえどのおおかみ~」で始まっているあたり素晴らしいですね。
一番をいざなぎのおおかみ→二番をはらえどのおおかみとしたのには、原作に添ったことと、「人の信仰が変化した」という意味合いをちょっとだけこじつけています。


2.人が神を忘れた現代における、早苗と諏訪子の物語。


  長い時間が過ぎ、人は神を忘れ、神はもはや遠からず消える定めであった。
  そんな中、守矢神社の神主が亡くなり、次代の神主が赴任する。
  次代神主「東風谷静香」その娘「早苗」に、諏訪子はかつての自分の娘の姿を思い起こす。
  自分の遠き祖先に再開する諏訪子であるが、やはり、抱きしめることはできない。

  そうして月日は過ぎ、早苗は成長していくが、あるとき、母が病に倒れる。
  今際の時に、早苗は自分が捨て子であり、静香は自分の本当の母ではないと知る。
  そうして二柱と自分の娘に看取られた静香の後を継ぐと宣言する早苗に対し、
  二柱は「幻想郷」に自分たちの居場所を見出す。
  早苗は、自分の生きる道は風祝しかないと半ば盲目的に、二柱と共に幻想郷へ足を踏み入れる。

  幻想郷に新たな神が現れる異変。異変であれば、解決する存在がいる。
  博麗の巫女と対峙する洩矢の巫女。その圧倒的な力の差に挫けそうになるも、その心を支えたのは諏訪子だった。
  巫女であるとか、風祝であるとか、そういうものではなく、自分で自分の生きていく道を見つけるために戦えと声をかける。
  そうして、諏訪子の力添えもあり、早苗は博麗の巫女を撃退する。
  人と神としての関係をふりきった諏訪子は、とうとう自分の「娘」を抱きしめる。



楽曲の「かぜなきし」は、諏訪子と早苗の関係を描写することに努めました。(後述)

諏訪子が「なくことができない」理由は前述のとおりですが、
早苗は早苗で、母、静香の教育方針でもある、辛い時でも泣かずに立ちあがれ。という教えのままに生きているイメージです。故に、膝をついては「なくことはできない」という感じです。

結局、「かぜなきし」という言葉は、作中一度も出てこないのですが、
「かぜがなくことができた」という意味でとらえています。

諏訪子の理由・早苗の理由。各々がかかえる「なくことができない」理由は、
最後に解消され、早苗を抱きしめて諏訪子はなくことを赦された、というのが、「かぜなきし」ではないかなと思っています。

余談ですが、「信仰は儚き人間の為に」のサビメロを様々なところに入れ込んでいますが、
イントロや一番終了後の間奏、アウトロはもちろん、曲中5:50あたりの「立ち上がれと呼んでいる」付近でもばっちり入っています。個人的には特にここがばっちり入っているので印象深いです。

かぜなきしは間違いなく三柱(2.5柱?)の物語ですが、楽曲のかぜなきしにおいては、神奈子だけは影が薄いと言わざるを得ません。

作中、神奈子にも、神としての自分を考えていくというドラマがあります。
ただ、楽曲の「かぜなきし」ではそこにあまり触れられなかったのがやや残念です。
(それでも忘れてはならないのは、「人の子は人に愛され、神の子は神に愛されるのが道理」といったのは神奈子であるということですね)


「人の子は人に愛され、神の子は神に愛されるのが道理 」であるとして、
では、人であり神である早苗は、誰が愛すればいいのでしょうか。

母、静香は「願わくば、人も神も貴女を愛してくれるように」と言っています。
早苗は全てから愛されて欲しいですね。

原作の設定を踏襲して深みを与える、東方同人誌の王道というべき一冊です!
2014/01/01 (Wed)
「エンゲージ」

 映画の撮影という体裁をとった、レミリアとパチュリーの出会いを描いた物語です。 

  幻想郷の新たなビッグビジネス…になるかどうか?はさておき、てゐに唆され、映画の撮影に臨む、レミリアとパチェ。
  「エンゲージ」は、パチュリーに”頭の悪い喧嘩もの”と揶揄される脚本ではありながらも、二人の出会いにフォーカスされたもので、
  レミリアを滅ぼそうと挑むパチュリーの視点を中心に、二人の死闘が展開されていきます。
  
  その攻撃の悉くが効果の薄く、劣勢なパチュリーが取り出した賢者の石。
  「それ」を作るために自らの同胞を手にかけたであろうことを指摘されても、意に介さず。
  展開される圧倒的な質量の魔法。そして、自分の力を使い果たす勢いで放つロイヤルフレア。
  焼き尽くされる夜の女王、けれど、それでもなお滅ぼされるには至らない。
  自らの死を覚悟する魔女に、手を差し伸べるレミリア。
  そうしてその手を取った二人は…

エンゲージは、レミリアとパチュリーの出会いについて述べられた作品ですが、映画の撮影という体裁をとっているため、実際にこんなことがあったかどうかはわからないというのが憎いポイントです。
実際作中でも撮影担当の文から「後半の演技の熱の入りようからして、こういうことが実際にあったのか?」というツッコミが入るくらいです。
そのあたりは、想像の余地がある感じですね。
(作中では「昔から友達だしね?」と〆ていますが)
 
エンゲージはバトル描写が秀逸です。二人の死闘の一コマ一コマが、その一撃一撃が常にリーサルで、レミリアとパチュリーだからこそありえたであろう戦闘情景の描写は、是非とも読んでみて頂きたい次第です。

一方の音楽はというと、これはもう明確に「映画のエンディングテーマ」を目指しました。
バトルもののエンディングテーマというと、もう少しノリがよくロックな感じもあるのですが、これは二人の出会いの物語なので、もう少しロマンティックにしようと思い、このような形に落ち着いています。
音楽的には最近の音楽というよりも、1990年~2000年初頭のちょっと古い感じをイメージしています。
映画音楽であれば、やはり英語詩では?というイメージの元、いろいろな方のお力添えを頂き、完成させることができました。

映画のサウンドトラックなんかを買うと、主題歌は英語で、邦訳が対訳として乗せられているという歌詞カードをよくみる気がしているので、それに則り、意訳を多分に含む日本語詞を対訳として乗せています。軽く譜割りも合わせています。

・パチュリーは、自分を受け入れてくれる場所をずーっと探していたのではないか?
・レミリアの手を取ったことは、魔女と吸血鬼の契約(engagement)だったのか?
・あるいは、パチュリーの意志によるものだったのか…?

というあたりは、エンゲージのお話からさらに外側の要素を含む部分もありますが、作中から察せるところを想像して歌詞にしています。


(余談ですが、エンゲージが出たのち、この「東方×映画」というコンセプトが他の作家さんを刺激されたのか、実際に「東方×映画」合同というのも出ています。
「ニューシネマ幻想郷」と題されたそれにも、エンゲージの1シーンが使われています)


シリアスとほのぼのを両立させた作風で、じわっとくる一冊です!
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