凋叶棕運営記。基本まったり更新。
「かぜなきし」
洩矢諏訪子、八坂神奈子、東風谷早苗の三人を中心に、人と神との関係をえがいた物語です。
これも非常にタイムスケールの長い作品で、全体として二部に分割されています。
1.神が人を支配していた時代の、諏訪子と神奈子の物語。
洩矢の王国に君臨する神「諏訪姫」は、人と神との絶対的な関係のままに、人の上に君臨していたが、
人が鍛えた土である「鉄」を手にしたことをきっかけに、
人と神とが共に支え合って生きていくことこそが真に大切なのだと思いを改め、人と共に生きていくこととなる。
そんな中、洩矢の王国は風の神八坂神奈子の襲撃を受け、これに敗れ、その王国を奪われる。
王国を奪われた諏訪姫は、人を守ることもできず、王国の荒廃をただただ見ているばかりとなる。
王国の荒廃を黙ってみている諏訪姫に対し、自分達は神から見捨てられたと思い込む人からの八つ当たりのような復讐。
そうして諏訪姫は、自分の身に人の子を宿すに至る。
ややあってその身の子を産む諏訪子だが、
自分は神、この子は人、人の子は、人に育てられるが最良と、
その体を抱きしめることもせずに、自らの子を人の手に委ねる。
それを遠巻きから眺める神奈子は、
「人の子は人に、神の子は神に愛されるのが道理ではないのか」と疑問を抱くが、
それは諏訪姫には届かない。
その子を見守りながら、諏訪姫(諏訪子)と神奈子はお互いを認め、以て王国を統治していく。
設定はほぼ、原作の流れにそのまま沿っているのですが、諏訪子に子供ができるという一点の描写に力を入れていることが大変特徴的です。そしてこれこそがかぜなきしの最も大事な点だと私は思っています。
「人の子は人に、神の子は神に愛されるのが道理」であるのに、諏訪子の子供は諏訪子に愛されない。
諏訪子にとって、その子は自分の子であっても、「人」であって、人と神との違いを思えば、自分の子として抱いて、「なくこともできない」のではないかと思っています。
この時点の人と神とは、部分的に歩み寄りを見せているようで、それでも神(主に諏訪子)は神、人は人であるという絶対的な違いをかたくなに維持します。
結局神は孤独なのだと思わざるを得ません。
かぜなきしの音楽は、「神」っぽく、壮大に~というイメージですが、辿/誘のCallingを思い出すような感じです。あれも自分の中では「偉大なもの」のイメージです。
サビ直前に入る「かけまくもかしこきいざなぎのおおかみ」の祝詞は、人から神にささげるものとして、作中でも印象的に用いられていますのでこれは入れるしかないな…と思ってのことです。
ときに、「かけまくもかしこきいざなぎのおおかみ」は祝詞の一部分でしかありません。
これだと「いざなぎのおおかみ」に自分の言葉を申し上げる…と言っていることになってしまいますが、それは祓の言葉的には正しくないため、
それであればいっそ「かけまくもかしこきはらえどのおおかみ」としてしまうのがいいと思うのですが、かぜなきし本編では「かけまくもかしこきはらえどのおおかみ~」で始まっているあたり素晴らしいですね。
一番をいざなぎのおおかみ→二番をはらえどのおおかみとしたのには、原作に添ったことと、「人の信仰が変化した」という意味合いをちょっとだけこじつけています。
2.人が神を忘れた現代における、早苗と諏訪子の物語。
長い時間が過ぎ、人は神を忘れ、神はもはや遠からず消える定めであった。
そんな中、守矢神社の神主が亡くなり、次代の神主が赴任する。
次代神主「東風谷静香」その娘「早苗」に、諏訪子はかつての自分の娘の姿を思い起こす。
自分の遠き祖先に再開する諏訪子であるが、やはり、抱きしめることはできない。
そうして月日は過ぎ、早苗は成長していくが、あるとき、母が病に倒れる。
今際の時に、早苗は自分が捨て子であり、静香は自分の本当の母ではないと知る。
そうして二柱と自分の娘に看取られた静香の後を継ぐと宣言する早苗に対し、
二柱は「幻想郷」に自分たちの居場所を見出す。
早苗は、自分の生きる道は風祝しかないと半ば盲目的に、二柱と共に幻想郷へ足を踏み入れる。
幻想郷に新たな神が現れる異変。異変であれば、解決する存在がいる。
博麗の巫女と対峙する洩矢の巫女。その圧倒的な力の差に挫けそうになるも、その心を支えたのは諏訪子だった。
巫女であるとか、風祝であるとか、そういうものではなく、自分で自分の生きていく道を見つけるために戦えと声をかける。
そうして、諏訪子の力添えもあり、早苗は博麗の巫女を撃退する。
人と神としての関係をふりきった諏訪子は、とうとう自分の「娘」を抱きしめる。
楽曲の「かぜなきし」は、諏訪子と早苗の関係を描写することに努めました。(後述)
諏訪子が「なくことができない」理由は前述のとおりですが、
早苗は早苗で、母、静香の教育方針でもある、辛い時でも泣かずに立ちあがれ。という教えのままに生きているイメージです。故に、膝をついては「なくことはできない」という感じです。
結局、「かぜなきし」という言葉は、作中一度も出てこないのですが、
「かぜがなくことができた」という意味でとらえています。
諏訪子の理由・早苗の理由。各々がかかえる「なくことができない」理由は、
最後に解消され、早苗を抱きしめて諏訪子はなくことを赦された、というのが、「かぜなきし」ではないかなと思っています。
余談ですが、「信仰は儚き人間の為に」のサビメロを様々なところに入れ込んでいますが、
イントロや一番終了後の間奏、アウトロはもちろん、曲中5:50あたりの「立ち上がれと呼んでいる」付近でもばっちり入っています。個人的には特にここがばっちり入っているので印象深いです。
かぜなきしは間違いなく三柱(2.5柱?)の物語ですが、楽曲のかぜなきしにおいては、神奈子だけは影が薄いと言わざるを得ません。
作中、神奈子にも、神としての自分を考えていくというドラマがあります。
ただ、楽曲の「かぜなきし」ではそこにあまり触れられなかったのがやや残念です。
(それでも忘れてはならないのは、「人の子は人に愛され、神の子は神に愛されるのが道理」といったのは神奈子であるということですね)
「人の子は人に愛され、神の子は神に愛されるのが道理 」であるとして、
では、人であり神である早苗は、誰が愛すればいいのでしょうか。
母、静香は「願わくば、人も神も貴女を愛してくれるように」と言っています。
早苗は全てから愛されて欲しいですね。
原作の設定を踏襲して深みを与える、東方同人誌の王道というべき一冊です!
洩矢諏訪子、八坂神奈子、東風谷早苗の三人を中心に、人と神との関係をえがいた物語です。
これも非常にタイムスケールの長い作品で、全体として二部に分割されています。
1.神が人を支配していた時代の、諏訪子と神奈子の物語。
洩矢の王国に君臨する神「諏訪姫」は、人と神との絶対的な関係のままに、人の上に君臨していたが、
人が鍛えた土である「鉄」を手にしたことをきっかけに、
人と神とが共に支え合って生きていくことこそが真に大切なのだと思いを改め、人と共に生きていくこととなる。
そんな中、洩矢の王国は風の神八坂神奈子の襲撃を受け、これに敗れ、その王国を奪われる。
王国を奪われた諏訪姫は、人を守ることもできず、王国の荒廃をただただ見ているばかりとなる。
王国の荒廃を黙ってみている諏訪姫に対し、自分達は神から見捨てられたと思い込む人からの八つ当たりのような復讐。
そうして諏訪姫は、自分の身に人の子を宿すに至る。
ややあってその身の子を産む諏訪子だが、
自分は神、この子は人、人の子は、人に育てられるが最良と、
その体を抱きしめることもせずに、自らの子を人の手に委ねる。
それを遠巻きから眺める神奈子は、
「人の子は人に、神の子は神に愛されるのが道理ではないのか」と疑問を抱くが、
それは諏訪姫には届かない。
その子を見守りながら、諏訪姫(諏訪子)と神奈子はお互いを認め、以て王国を統治していく。
設定はほぼ、原作の流れにそのまま沿っているのですが、諏訪子に子供ができるという一点の描写に力を入れていることが大変特徴的です。そしてこれこそがかぜなきしの最も大事な点だと私は思っています。
「人の子は人に、神の子は神に愛されるのが道理」であるのに、諏訪子の子供は諏訪子に愛されない。
諏訪子にとって、その子は自分の子であっても、「人」であって、人と神との違いを思えば、自分の子として抱いて、「なくこともできない」のではないかと思っています。
この時点の人と神とは、部分的に歩み寄りを見せているようで、それでも神(主に諏訪子)は神、人は人であるという絶対的な違いをかたくなに維持します。
結局神は孤独なのだと思わざるを得ません。
かぜなきしの音楽は、「神」っぽく、壮大に~というイメージですが、辿/誘のCallingを思い出すような感じです。あれも自分の中では「偉大なもの」のイメージです。
サビ直前に入る「かけまくもかしこきいざなぎのおおかみ」の祝詞は、人から神にささげるものとして、作中でも印象的に用いられていますのでこれは入れるしかないな…と思ってのことです。
ときに、「かけまくもかしこきいざなぎのおおかみ」は祝詞の一部分でしかありません。
これだと「いざなぎのおおかみ」に自分の言葉を申し上げる…と言っていることになってしまいますが、それは祓の言葉的には正しくないため、
それであればいっそ「かけまくもかしこきはらえどのおおかみ」としてしまうのがいいと思うのですが、かぜなきし本編では「かけまくもかしこきはらえどのおおかみ~」で始まっているあたり素晴らしいですね。
一番をいざなぎのおおかみ→二番をはらえどのおおかみとしたのには、原作に添ったことと、「人の信仰が変化した」という意味合いをちょっとだけこじつけています。
2.人が神を忘れた現代における、早苗と諏訪子の物語。
長い時間が過ぎ、人は神を忘れ、神はもはや遠からず消える定めであった。
そんな中、守矢神社の神主が亡くなり、次代の神主が赴任する。
次代神主「東風谷静香」その娘「早苗」に、諏訪子はかつての自分の娘の姿を思い起こす。
自分の遠き祖先に再開する諏訪子であるが、やはり、抱きしめることはできない。
そうして月日は過ぎ、早苗は成長していくが、あるとき、母が病に倒れる。
今際の時に、早苗は自分が捨て子であり、静香は自分の本当の母ではないと知る。
そうして二柱と自分の娘に看取られた静香の後を継ぐと宣言する早苗に対し、
二柱は「幻想郷」に自分たちの居場所を見出す。
早苗は、自分の生きる道は風祝しかないと半ば盲目的に、二柱と共に幻想郷へ足を踏み入れる。
幻想郷に新たな神が現れる異変。異変であれば、解決する存在がいる。
博麗の巫女と対峙する洩矢の巫女。その圧倒的な力の差に挫けそうになるも、その心を支えたのは諏訪子だった。
巫女であるとか、風祝であるとか、そういうものではなく、自分で自分の生きていく道を見つけるために戦えと声をかける。
そうして、諏訪子の力添えもあり、早苗は博麗の巫女を撃退する。
人と神としての関係をふりきった諏訪子は、とうとう自分の「娘」を抱きしめる。
楽曲の「かぜなきし」は、諏訪子と早苗の関係を描写することに努めました。(後述)
諏訪子が「なくことができない」理由は前述のとおりですが、
早苗は早苗で、母、静香の教育方針でもある、辛い時でも泣かずに立ちあがれ。という教えのままに生きているイメージです。故に、膝をついては「なくことはできない」という感じです。
結局、「かぜなきし」という言葉は、作中一度も出てこないのですが、
「かぜがなくことができた」という意味でとらえています。
諏訪子の理由・早苗の理由。各々がかかえる「なくことができない」理由は、
最後に解消され、早苗を抱きしめて諏訪子はなくことを赦された、というのが、「かぜなきし」ではないかなと思っています。
余談ですが、「信仰は儚き人間の為に」のサビメロを様々なところに入れ込んでいますが、
イントロや一番終了後の間奏、アウトロはもちろん、曲中5:50あたりの「立ち上がれと呼んでいる」付近でもばっちり入っています。個人的には特にここがばっちり入っているので印象深いです。
かぜなきしは間違いなく三柱(2.5柱?)の物語ですが、楽曲のかぜなきしにおいては、神奈子だけは影が薄いと言わざるを得ません。
作中、神奈子にも、神としての自分を考えていくというドラマがあります。
ただ、楽曲の「かぜなきし」ではそこにあまり触れられなかったのがやや残念です。
(それでも忘れてはならないのは、「人の子は人に愛され、神の子は神に愛されるのが道理」といったのは神奈子であるということですね)
「人の子は人に愛され、神の子は神に愛されるのが道理 」であるとして、
では、人であり神である早苗は、誰が愛すればいいのでしょうか。
母、静香は「願わくば、人も神も貴女を愛してくれるように」と言っています。
早苗は全てから愛されて欲しいですね。
原作の設定を踏襲して深みを与える、東方同人誌の王道というべき一冊です!
PR
この記事にコメントする